2015年8月15日

理事長 コラム「戦後70年にあたって」

Filed under: その他 — 漆 @ 12:14 PM

今日は終戦の日です。理事長のコラムをご紹介します。本校HPの保護者ページで紹介されたものですが、在校生保護者向けのパスワードが必要ですので、卒業生はじめ、品川ファミリーの皆様にもシェアします。これを読んで、幼い頃、両親に連れて行かれた長崎の原爆記念館で受けた衝撃が蘇ってきました。

「戦後70年に当って」

理事長 漆 邦臣

 今年は戦後70年に当り、終戦から今日までの各分野について語られている。
「戦争を知らぬこどもに孫もいて」新聞で見た川柳だが70才でも戦争を知らないのに、すでに孫を持つ世代になったのだ。この機会に、戦争中、小学生だった私の記憶をたどり当時を振り返ってみたい。

私が小学校に入学したのは昭和15年(1940)で当時の尋常小学校最後の入学生である。現在の天皇陛下と同期入学ということで習字用の「硯」を全国の小学1年生はお祝いにいただいた。その翌年の12月8日、太平洋戦争が始まる。戦時体制のもと1941年から小学校は国民学校と改称された。そして小学6年生だった昭和20年8月15日終戦の日を迎える。
思えば私の小学生時代は戦争に始まり戦争で終ったことになる。ただ私は九州の片田舎で育ち囲りに軍事施設もなく米軍の爆撃機B29が上空を通過するのは見たが空襲にあった経験はない。隣県の福岡、長崎の空襲に向っていたのだろう。それでも8月9日長崎に投下された原爆による「きのこ雲」は、はるかに見えた場所だった。

戦後70年に当り宮内庁は昭和天皇が終戦を国民に告げた8月15日正午に流された「玉音放送」の原盤を公開するという。後の人たちも耳にした昭和天皇特有の抑揚による「耐え難きを耐え、忍び難きを忍びて・・・・・」の音声である。私はその日ラジオの前で聴いたが、雑音が多くよく聴きとれなかった。

本校の修学旅行でも、広島、長崎、沖縄で戦禍をくぐり抜けた体験者に生々しい当時の有様を語ってもらった。いわゆる「語り部」である。しかし戦後70年。語り部たちも90才前後と老いた。それらの地では語り継ぐための「新語り部」を養成していると聞く。そして10年後の「戦後80年」には「生きた語り部」はもういない。