母校の思い出
(だと思う。たぶん。実験が好きで高2で化学Ⅱを選択したらスーパー文系なのに自動的に理系クラスに入ってしまったくらい化学は好きだったんですが、あまりに昔のことで・・・。確認したら、1年生が自分の出席番号の元素を調べそうです)
学校にいると、自分が生徒だった頃のことを懐かしく思い出すようなことが沢山あります。この日も思わず立ち止まって、担任だった理科の先生のことを思い出しました。
40年近く前の都立ですから、文理選択の説明がないくらい(私だけが聞いてなかったのかも)進路指導は自己責任でした。面談も年に一回あるかないか。
職員室前の廊下で毎日のように担任と面談している6年生を見ていると、ちょっとうらやましいです。
当時、高3の最後の面談で、
「先生、今年、実力で入れるところも受けるのと、あくまでも第一志望校一本にしぼるのとどっちがいいですか?」と相談したら、
「今の実力って、○○大学行く?浪人すれば君の成績から東大入った先輩もいるから」と力強く言われ約5分。(先生、私、私立文系です)
ちなみに、私の次に面接室に入っていった友人は面談時間が異っ常~に長かったので、
「どんな話をしていたの?」と聞いたら、
「君は良寛を知っているか?」と聞かれ、良寛の話で一時間終わったと言っていました。
私は浪人して入学した大学で生涯の伴侶に出会い、この友人は大学卒業後、視覚障がい教育という天職に出会ったので、先生は私たちのずっとずっと先の未来を見ていたのかもしれません。
先生は母校の名物教員でした。
担任になると、始業式のあとにクラスの生徒にまず洗礼。
「伊藤、今日、始業式で校長先生がなんとおっしゃっていたか言ってみろ」
「・・・・・」
「漆、伊藤に教えてやれ!」
「・・・・・」(品女生なら言えるかも。いつも聞いてくれてありがとう)
と、これをアイウエオ順に4人くらい繰り返し、やおら手帳をとり出して
「今日の校長先生のお話はこういう内容でした」と読み上げて、
「馬鹿なやつはメモを取るんだよ!」(これがオチ。上級生に聞くと、数十年来の儀式だそうです。おかげでメモを取るようになりました)
先生は多趣味で教養が広く話し好き。京大で歴史を学ぶか北大で生物を学ぶか迷った高校時代の話から、山登り、ダイビングの話まで話し始めると止まりません。
持ち物は質素なのに、時計だけがなぜロレックスなのか(ダイビングのため、防水機能が高いから)という話も定番で、生徒はみな先輩から聞いていますが、初めて聞くように驚いたり、頷いたりするのが礼儀です。
学校の応援歌に、「○○高校の~、△△先生~・・・サ~ザエ採るの~は~、苦労~がいると~、夢中~で~話~せ~ば~、授業は終わ~る~」という替え歌があったほどです。
のどかな時代でした。夏目漱石や幸田露伴や尾崎紅葉が在学してたとか、理科の宿題はドイツ語で出した生徒がいたとか、様々な伝説のある学校だったので、その伝統から選択科目も進路指導も自分のことは自分で考えるという校風でした。
HRもほとんどなく、自習もなくて、朝、休講という張り紙があるとそのままUターンして時間をつぶしに。学校をサボっていると思われて警官に補導された同級生もいました。
私たちの頃の都立は、学校群制度(2~3校のグループを受験し、合格者は成績が各校均等になるように自動的に振り分けられる、学校を選べない制度)だったので、伝統のカラーはだいぶ薄まってきていましたが、
裏門を乗り越えて授業をサボる生徒がいて近隣から苦情が出たとき、門に一枚、
「○○高校生としての矜恃を持って行動すること」
と紙が貼ってあり、なぜか胸が熱くなった記憶があります。
今は進学重点校になり、こうした校風も先生も影を潜めてしまったと嘆く友人がいます。しかし、同じ学校群の中には形態が変わってしまった学校もあり、卒業生として母校を守るため、できる限りの貢献をしたいと思っています。
28歳ホームカミングデーに集う卒業生達の笑顔を見ていて、私たちは私学として創立の理念を変えず、校風を守り、この子達の母校がこれからもずっとここにありつづけるよう、力を合わせていきたいと強く思いました。