与謝野光さんのスピーチ
昨日は校歌を漆光が与謝野晶子先生に依頼したエピソードを紹介しましたが、ご子息の光さんが過去の周年行事にお越しになったとき、祝辞として与謝野家から見た校歌作成のエピソードをお話をしてくださっています。当時の与謝野家の事情、与謝野晶子の女子教育への思いなどを語ってくださり、心打たれます。
漆光先生が荻窪にありました母の宅を訪ねて下さったのは昭和10年ということでございます。昭和10年と申しますと、私にとっては非常に想い出の年でありまして、三月の10日に歌ができまして、26日に母は夫を失いました。そのころにはもうすでに父は慶応病院に入院しておったようなわけで、非常に身辺の忙しい時でございましたけれども、漆先生のご熱意にほだされまして、母は作詞を致したものと思います。
私の母はご存知のように詩人として知られておりますが、一面において、終生婦人の地位向上ということに努めて参ったものでございます。只今は婦人参政権を得られまして、もうよろしいのですが明治、大正時代は男女の社会的な地位の差というものが、非常にいろいろな面でございまして、母はこれを嘆いておったわけでございます。普選の歌というのがありまして、これは婦人参政権の歌でありますが、これも母の作詞によるものでございます。そのようなわけで、母はなんとかして男女の社会的地位の差を解消しなければならないと、生涯考えておりました。その為には、どういうことをしたらよいか、いろいろ言っておりましたが、その一つで特に母が関心を持ちましたのは、教育の差ということであったのでございます。
ご承知のように戦前は、中等教育としては、中学校、女学校とあったわけでございますが、女学校の教育課程というのは、中学校より一段下にしてあったわけでございます。女の人はそれだけの学問をする必要がないという思想から、明治、大正を通じて非常な差があった。社会へ出てから、基礎教育の差がどこまでもつきまとい、これが男女の差を生む大きな原因であると母はよく言っておりました。どうしても教育は男も女も同じ教育をすべきである。勿論男の人と女の人は違っていてもよいのですが、人間として同じでありたい、母はこれを言って参りました。その意味で、その一つの達成の方向として、教育の差をなくすことであると言っておりました。従いまして、漆先生がおいでになりました時に、喜んで母が校歌を作りましたのは、やはり母の念願がそこにあったものと思います。
記念式の日、在校生に配った記念の品です。
株式会社キユーピーさんより90周年記念ボトルマヨネーズ | |
PTAより エンブレムと90周年と焼き印のあるどらやき | |
後援会よりUSB(中に学校の歴史が入っています) | |
「生命と向き合う白バラたち」医師、看護士など命の現場で働く卒業生を取材した冊子。 |