理事長の葬儀のご報告
昨日、理事長の葬儀を終えました。お忙しいところお参りくださったみなさま、弔電、ご供花をいただいたみなさま、ありがとうございました。
祭壇は白薔薇を中心にし、みなさまからのご供花を飾らせていただきました。 | |
ご焼香台の手前に、理事長の若い頃からの写真をスライドショーで映しました。 |
私どもの菩提寺は尼寺なのですが、偶然にも、今の庵主様は本校の卒業生です。お経の前に理事長をよく知る卒業生ならではのご挨拶をいただき、お任せした戒名には校歌の「清・明・徳・知」の文字がありました。
弔辞は同じ支部で昔から理事長が親しくさせていただいている東京私立中学高等学校協会の近藤彰郎会長にお願いしました。式の後で弔辞を開くと、薄墨で一文字一文字心を込めて書いてくださっていて、家族は涙を流しました。
スライドショーからいくつか写真をご紹介します。
海浜生活の朝のラジオ体操。 左が理事長、 右が先日亡くなられた松本先生。 |
九州の修学旅行。 この頃はセーラー服でした。 |
海浜生活。 右が理事長。 水泳指導もしていました。 |
宿泊行事はすべて引率していました。 なかなか火起こしのできないチームに、 ついお手伝い。 |
入学式。 式典でも生徒に向かうときは いつも笑顔。 生徒が大好きでした。 |
芳葉会(同窓会) こういう日はいつも 白薔薇柄のネクタイでした。 |
毎年、近隣の方との 新年会をかねて 駅伝の応援。 理事長は右から三番目。 今年の1月3日の応援が 学校に来られた最後になりました。 |
体調が悪くなってからも、 毎朝、生徒の登校を見守っていました。 |
佐賀新聞に訃報を載せていただいたおかげで、故郷の古い友人知人からもお便りをいただきました。
転校生だったのに生徒会長になったこと。野球部だったこと。高校の応援歌を作詞し、今も歌い継がれていること。そのような思い出が書かれていました。
様々な苦労もあったようです。亡くなる前に時間があったので、孫にいろいろな話をしていました。
旧制中学に入ってすぐ、川で遊んでいて腰を痛め、寝たきりになってしまった。通学路に家があったため、学校に通う友達を眺めながら悲しい一年を過ごしたこと。
その間に新制中学になり、二学年分の同級生ができたこと。
父が警察官だったため、戦後、職を失い、母が縫い物をしてやっと食べていた。自分が鶏を飼って卵を生ませ、物々交換をしていたこと。
東京の大学には兄弟が仕送りをしてくれてギリギリ通えたこと。
(小さな頃、「京菜ってどんな野菜?」と聞くと、「京菜はいいぞ。一週間は食える」と答えたことを思い出しました)
戦中戦後を生きた世代には同じような体験があると思います。
そうしていろいろな方にお世話になったため、誰にも優しく、まめで世話好きな人でした。
母が末期癌で家族が毎晩病院に泊まり込みをしている時期に、はがきの宛名書きをしているので、「こんなときに何をしているの?」と聞いたら、「同窓会の案内状。いつも私が出すからみんなそういうものだと思っているから」と言い、あきれたこともありました。礼状もこまめに書く人でした。
葬儀で多くの方から様々なお話を伺い、人とのつきあいを大切にすることの意味をあらためて教えられました。
残る人に迷惑をかけないようにと以前から準備もしていて、遺影の写真や「漆邦臣死亡時の連絡先」等々の文章を家族に託していました。
その中に、平成25年の日付で「私の葬儀のお願い」という手紙があり、そこには以下のようなことが書かれていました。(抜粋)
私は皆さんに集ってもらい、賑やかな旅立ちを望んでいる。
思えば人の人生は「出生」に始まり「辞世」で終わる。
その間の「人生」で多くの人たちと出会い、交わり、お世話になり、楽しみながら今日の「死」を迎える。
だからこの世で過ごした「幸せ」への感謝の表現が「葬儀」だととらえたい。
私は棺桶の中で薄目を開けながら成り行きを、じっと見守る。
よろしく頼みますよ!
漆 邦臣
通夜の日、お清め場所は卒業生や旧職員、友人知人の同窓会場のようになり、斎場の方に消灯するので帰るように促されるほどでした。
理事長は、願いが叶ったと薄目を開けて喜んでいたと思います。
式中、行き届かないことも多々あったと思いますが、どうかお許しください。みなさま、本当にありがとうございました。