昭和10年の芳名録・校地について
3月に在校生、芳葉会、後援会の皆さまにお渡しした学校報『品川ファミリー』にこんな原稿を寄せました。あらためて写真を添えてご紹介します。
理事長が片付けをしていたらこんなものが見つかりました。 | |
昭和10年7月、学校長 清浦錬子、理事長 漆雅子とあります。中身を読むと・・・、 |
品川高等女学校は昭和4年4月荏原婦人会によって開設された。献身的努力を尽くして優良な教職員を採択招聘し、
「しっかりした女子の育成を方針として健康第一、堅実勤労、責任信用、親切協同の標榜に邁進し、またさらに嘉納先生創案の精力善用国民体育を励行・・・」
柔道の創始者、嘉納治五郎氏を招いて生徒に体操を教えていただいたと聞いたことがありますが、今の生徒が行事、部活と学習に取り組んでいるように、創立の頃から文武両道を大切にしていたことがわかります。
「親切協同」ということも、チームワークを大切にする品女生に受け継がれていますね。そして、
幸いなことに入学希望者が年々増えて、教室の増築を迫られている。
「整った機械・器具・標本等をいっそう完備して優秀な高等女学校になることは、容易なことではなく、日夜このことに痛心奔走しておりますが、なほも資金の数々を要しまするので・・・」
ここまで読むと、どうも寄付のお願いのようです。「国家の非常時ではあるけれど・・・」という言葉もあり、第二次世界大戦がこの4年後に始まることを考えると、経済的にも学校を継続することが本当に大変な時期だったのでしょう。
しかし、なぜか芳名帳は白紙のままでです。どうやってこの窮状を切り抜けたのでしょうか。
職員室でこれを読みながらふと西棟に目をやりました。
私が子供の頃、今の西棟は土の運動場でした。その中には民家があり、ボールがそちらへ飛ばないように網のフェンスでしきられていました。
引っ越しを考えているというお宅があると、当時の校長は、誰より先に飛んでいってお願いし、一軒また一軒と、土地を譲っていただきました。そうして、何十年もかかって今のような「四角い土地」になったのです。
その後、全天候型のグラウンドが完成したとき、「雨の翌日でも運動ができる!」とみなで大喜びしたことを覚えています。
今、自分が校長になり、クラブの活動場所をやりくりしている生徒達を見ていると、あのころの校長の気持ちが痛いほどわかります。
今の品川女子学院があるのは、84年間、苦しいときも学校の灯火を途絶えさせることなく守ってくれた卒業生、教員、品川ファミリーみなさんのおかげなのだと、この色あせた芳名録の表紙を見つつ感謝の念を新たにしました。
この灯火を次に渡すのが在校生のみなさんの仕事です。
さて、こうした祈りが天に通じたのでしょうか、この度、将来的な校舎リニューアルの際に必要となる土地を確保することができました。
最悪の場合、建て替え期間中の引っ越しを考えなくてはと頭を痛めていましたが、幸いにも唯一可能性のあった隣接地を取得することができました。
工事開始年度は現在検討中ですが、在校生の卒業までは行なわず、その間は生徒の教育活動に利用する予定です。
なお、今後、在学中に工事期間にかかる可能性のある受験生の皆さまには、説明会・HP等で事前にお知らせいたします。
昨日、保護者の皆さまへのお手紙をお子様にお渡しましたのでご確認ください。