入学式・与謝野晶子と校歌
今日は入学式でした。今年も新しい品川ファミリーを迎え、来年の90周年に向け、この学校の灯火がつながりました。
式では6年生が校歌の紹介をしてくれました。ピアノと独唱の二人です。さすが最上級生、堂々としていました。後ろの花は式の壇上にフラワーアレンジメント部が飾ってくれたものです。終了後は玄関前に運び、新入生の記念撮影の場所になっていました。
さて、この校歌について、PTA通信の卒業記念号でふれたことを、入学式にあたってもう少し詳しくご紹介します。校歌の作詞者、与謝野晶子の人となりの分かるエピソードです。
本校の校歌について、先々代の校長、漆光のこのような記述があります。
「昭和10年3月6日(地久節)の佳き日に与謝野晶子先生からお送りいただいた。白ばらの校章にまことにふさわしい校歌であると思う。直接、作歌をお願いに荻窪の与謝野邸に伺った私にとっては、この校歌が斉唱されるのを聞くたびに、在りし日の晶子先生の温容が偲ばれて感慨がひとしお深い。」
校歌に添えられていた与謝野晶子からの手紙の内容です。
「先日は遠路をわざわざおいで下され、心苦しく存じ申し候。この程より風邪に候ふところやむなき用にて一度外へいで候ことにより、またわろくいたし候て、そのため頭もよろしからず、作歌もなり難し。出来候ものも意に満たずに候へどもお急ぎのことと存知候へば差し上げ候。(後略)」
校歌の作歌が風邪のために遅れたことをわびる手紙で、歌の内容についても謙遜しています。
ところが、最近、理事長が晶子の長男・光氏の奥様の著書を読んで分かったことですが、実はこの時期、与謝野家には、もっと深刻な事情があったのです。その内容を略して紹介します。
「二月になって間もなく、宇智子さんが学校でけがをして入院するさわぎがあり、義父母はひどく心を痛めた。義父(与謝野鉄幹)はその頃から軽い風邪をひいていたようだ。
光は忙しい中を荻窪に病父を見舞い、浮かぬ顔をして帰宅した。
「父さんのタンが肺炎独特の色をしているんだ。熱は八度ほどだが肺炎を起こしている。」
三月十三日、慶応病院へ入院した。
義父は義母の顔を訴えるような目をして苦しげに見上げる。義母は優しく背に手を回して、そっと起こして支えるように枕を置きかえている。私は温かい夫婦愛に打たれてみていた。
三月二十六日、夜明け。大家さんへ呼び出し電話がかかり、出ると義父の最期を告げるものだった。
夜明け「ママ、ママ」とふたこと弱い声で言ったのが最後の言葉で義父は逝ったという。
葬送の式の間中、義母は光と私の間に座っていたが、つぎつぎ続く弔詞の言葉に耳を傾けながら、ひどい疲れも出たのであろう、ひと回り小さくなって打ちひしがれたひとが風にゆれているように見え、私にはかなしくひどく不安を感じた。
与謝野晶子は夫、鉄幹との間に13人の子供を出産しています。
「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟」
5月の仏蘭西の野に咲く真っ赤なヒナゲシの中に分け入っていく二人を詠んでいます。
当時、失意にあった鉄幹を晶子が費用を工面してヨーロッパに送り出し、その後、自分も子供を預けて追っていき、再会したあとに詠んだ歌です。
晶子がどんなに鉄幹を愛していたかが伝わってきます。
その最愛の夫が病床にあるとき、本校の校歌を約束通りに届けてくれたのです。しかも、相手に負担をかけないように、事情を言わず。
校歌の中に「ゆかしくも香る人の中なる薔薇の花」という言葉があります。「ゆかし」という言葉は、自分から言わなくても相手が心引かれて近づきたくなるという意味の言葉です。まさに、晶子の理想とした女性像を表す言葉なのではないでしょうか。
縁あって品川ファミリーの一員となった新入生たちが、品女で過ごす6年間で「ゆかしくも香る白薔薇」のような思いやりある、魅力的な女性に育ってくれることを楽しみにしています。