水泳部の同窓会がありました
昨日の夜、本校水泳部の同窓会に参加しました。
50人近く集まり、中には福岡から子供連れで駆けつけた卒業生もいて、大いに盛り上がりました。
彼女たちがこれまで出した日本記録の合計が5つ、オリンピック参加がのべ3回(最高記録は5位入賞)、ユニバーシアード世界大会優勝・・・・というメンバーですが、「いま泳いでる?」と聞くと、「この間久しぶりに泳いだら、水がかけないんです~」(オリンピアなのに~)、子育てや仕事で忙しく水泳から遠ざかっている人も多いようです。
中にはトライアスロンを始めたり、水泳を再開してマスターズで世界記録を出したり、北京オリンピックから正式種目になるオープンウオータースイミングの指導者として活躍している卒業生もいて「みんなでチームを作ってもう一度泳ごうよ、ホワイトローズスピリッツ(校花が白バラなので)って名前で、そして後輩を応援しよう!」との提案もありました。
10月22日という日に、偶然こうした集まりが設定されたことは、水泳部の創設に関わった人たち、そして私個人にとっても感慨深いものがありました。(直前までこのことに誰も気付かなかったんですが)
実は、この日は水泳部を作ることを決め、個人でプールまで作ってしまった当時の副校長漆恭子(私の母です)の命日だったんです。
私事になってしまうかもしれませんが、「学校にプールはありますか?」と聞かれることも多いので水泳部が毎日練習しているプールがどのように出来たか、昔話をさせていただくと・・・。
当時、「学校に、何か生徒が誇れる特徴を作りたい」と思った副校長は、体操、水泳、吹奏楽の三つのクラブを再生、または新設しました。
優秀な指導者を招いたり、体操場を作ったり、楽器をそろえたりとそれぞれに力を入れていましたが、学校にはプールを作る校地がなく、水泳部だけは公営のプールを渡り歩いて練習をしていました。
そんなある日、生徒を乗せていた車と車が接触し、ドアが壊れてしまったのです。「このままではいつか大事故になる」と直感した副校長は、学校で無理ならば・・・と個人でプールを作ることを決断しました。
決めると行動の早い彼女、まずは土地の確保です。はっとひらめいて学校創立者(自分の祖母)の住んでいた家を測量するとなんとちょうど25mプールが出来ることが分かりました。(ですので、今もプールサイドはやっと人が歩けるくらいの狭さです)
次は建設費用です。家族の反対を押し切って(というか相談もなく)、とんでもない借金をしてきてしまいました。
まだ学生だった私が「どうやって返すつもり?」と聞くと「私の目の黒いうちは大丈夫、私がもしもの時はあなたもそう思えばいいの」と言われ、倒れそうになりました。
その後90代の創立者を家に引き取り、プールが竣工、テープカットというその日、彼女は病院のベッドの上にいました。(目の黒いうちは大丈夫と豪語したのに)
自由に練習できる場を得た水泳部はめきめきと力をつけ、たった5人のメンバーでインターハイに出場、全員が得点し、最後のリレーまで勝負のもつれ込んだゲームを制し、初優勝を果たしました。(昨夜はそのメンバーも参加していました)
副校長はその知らせを聞いたあと意識を失い、間もなく息を引き取りました。
癌でした。発見されたとき、医者に「あと半年」と言われ「いいえ先生、私は仕事を完成させるまであと5年生きます」と宣言し、その言葉通りの5年後のことでした。
こんなドラマみたいなこと本当にあるのかな?と今も時々思います。
本校の水泳部はこうして20数年、体育コースで思う存分練習に取り組めた時代、進学校化し勉強との両立に悩んだ時代・・・様々な歴史を経て、今年、久しぶりのインターハイ優勝者を出しました。
監督は昨夜「学習と両立する限られた時間の中では、もう選手養成は無理かと思ったときもあったが、それでもやれる!と選手も自分も信じ続けて取り組んできた結果が出た」と語っていました。
生前、副校長がいつも「一つのことに秀でた選手だからこそ、将来世に出るときのため、バランスよく広い知識を身につけなくてはならない」と言っていたことを思い出しました。
水泳を続けていてもいなくても、それぞれの道でキラキラと輝く卒業生達の姿を見ていて、中高時代、一生懸命取り組んだことがこの子達の土台を作っているんだなぁと感じました。
長い昔話になりました。
「私事」といいましたが、私立学校は創立者の志から始まり、生徒、卒業生、お子さんを託してくれたご家族、教職員、学校に関わる一人ひとりの「私」の思いに支えられて続いていくもの、そしてその思いに報いるため続けていかなければならないもの、との思いを新たにしました。
(写真:集合写真です)